【刺 針】 2008年6月19日付

 花の苗を植えるシーズンに入り、本紙でも連日のように学校や地域などでの整備を報じている。

 記事としては毎年のように行われる内容なので、地味と言えば地味なのだが、こういった記事を目にすると、当社事とはいえ地方紙の存在とは何なのか、考えさせられることがある。

 この花壇の整備がもし報じられなければ、関係者以外はどこの誰が何のために植えたかは知らないままである。花壇の前を通過しても「ああ、きれいな花壇だなあ」と記憶に留める程度だろう。
 だが花壇の記事を読んで記憶の隅にでも残っていたら、誰が作業したかを思い起こすことだってある。

 たとえば先に士別市役所前の噴水が花壇に生まれ変わったが、この花壇を整備したのは市の職員である。もしこの記事が報じられなければ、市役所を訪れた市民は、誰が花壇を造成したのかなどとは関心を持たないかもしれない。
 前述したように花壇整備記事そのものは、ありふれた出来事かもしれないが
、作業に携わった人々の労苦は、記事を通して伝わってくる。
 北海道の6月は花の季節だ。この季節を楽しみに本州から観光客がやってくる。「花によるおもてなし」が心を潤わせる。
 連日の花壇整備の記事を読むにつけ、ふとそんなことを思ったのである。

 もうひとつ、つい最近、犬の里親(飼い主)探しの記事が掲載された。で、すぐさま飼い主が決まったのだが、後日、何人かの読者から「里親が見つかったのろうか」と尋ねられた。「ええ」と答えると、その人たちの表情に安ど感が浮かんだ。その犬の行く末を心配していたに違いない。

 こんな時にも地方紙の果たす役割を思い知らされる。世はインターネットの時代だが、このあたりに地方紙ならでの生き残る方策があるかもしれないと思わないでもないのである。  (浩)