著 書

表    紙
内       容
 士別高校勤務時代の1982年から1990年までのエッセイなどをまとめたもの。 旅行記、士別の四季、自然、学級便りなど多彩な内容となっている。 発刊・1990年3月。A4判。
主な項目
  1. 士別の丘から
  2. イギリスを訪ねて
  3. 研究活動「士別の自然」
  4. 士別生徒会誌などから
  5. ブラームス第3番
  6. 学級便り
  7. その他
*イギリスからアイルランドに2度もわたったのは、どうもジョイスの「ユリシーズ」に頭をやられたらしいとか・・・(本人曰く)
ブラームスは珠玉の個人的エッセイです。
学級便りは書き続けることで、学校生活や人生、意見、考え、本の印象など生徒と自分の双方に問いかけている強靱な意思を感じます。(以上北村記)


エッセイ
士別の丘から
(北村洪史のエッセイ集「あなたと夜と音楽と」に寄稿.1990年)
 士別に来たのは8年前であった。でもすでに二回ほど大学時代に合宿で訪れている土地だった。士別と聞いたとたん、「ああ市の職員がアヒルをとって食べたところネ」なんていわれた。5月10日付けの中途採用だったので、雪も融け、新緑のあざやかないい季節であった。旭川まで特急で来て下車、西武で大きな目覚まし時計を買った。各駅列車が塩狩をこえる。剣淵を過ぎてしばらくすると丘の上に白い建物が見えた。駅から乗ったタクシーはこの丘の方向に走っていった。
 リュックひとつに当座しのぎのものを詰め込んでの赴任で、最初の二晩は駅前の旅館に泊まり、そこから学校に来た。学校はすでに新年度が始まったばかりの忙しい時期で新参者にかまっていられない状態だった。数日後、当時まだ設置されていた定時制の若い教員二人が、まだかたづいていない8畳間に訪れて来た。夜10時近く、勤務が終わったあとで、小脇には缶ビールを数本抱えていた。鳥かつの焼き鳥をアルミの皿にたくさん盛ったものも一緒に。これがぽくの歓迎会だった。この年は一年生の副担任で6月の遠足は、つくもの水郷公園でジンギスカン。帰りがけに温根別から来た生徒が「これ残ったから食べてくれ」とビニール袋一杯のネギをよこした。これを食べつくすのに三日かかった。ちょうどこの頃、小樽運河の埋め立てが問題になっており、秋ぐちの週末は小樽まで足をのばし、歩き回った。
 翌年の夏は60代70代のアメリカ人が大雪山系を歩くツアーでシアトルからやってきて、このガイドを手伝った。おかげでとうてい登る予定のなかった富士山まで登頂することになる。85年と86年には、博物館、地質学ゆかりの土地や北国の地形を見るのを主な目的にヨーロッパヘ行った。士別には瀟洒な博物館が出来たばかりで、地道な活動をやろうとしていたことはいい刺激になった。きちんと記録を書くということに価値を見いだしていたぽくにとってここの報告書の存在は大きかった。
 チェロのコンサートを最初に企画したのは85年。組織のなかと違って、声をかけた人たちは生き生きと活動した。上意下達ではないのと、提供できるものを提供すればいいという方針がみんなの気を楽にしたせいか案外うまくいった。田舎ではめったに機会がないからこそ選りすぐりの極上のものに接しなければならないのである。しかし今の社会ではなかなか経済的にそれがゆるされない。結局、自分で自分を売り込んでくる人に、少々持たなくてもいいはずのコンプレックスをもったほうが負けてしまうのである。
 士別の地形、これは素敵だ。えんえんと続くなだらかな丘。さらに防風林、カラマツ、小麦の彩り。秋には大豆や小豆の葉が黄色になる。ただ、その中に抱かれて満足してしまっていては頭もさびついてしまう。あとは人からの刺激だ。同じ土地に住む者同士の談論風発。談論なら誰でもするが、問題は風発だ。丁々発止となるためには自分が自分を磨かなければならない。
 ここで友達とはなにかという話に飛躍する。いつも刺激を与え続けられない者は結局友達として長続きしないのではないかということだ。おしやべりをしているだけで安心するというような人間関係も大切だ。でもそれだけではものたりないし、続かない。回顧だけににじり寄っていたんでは自分はそのままである。その人の今現在している仕事や趣味で堂々とわたりあい、本音で相手に批評ができる、さらに触発し合って新しい世界をつくりだせれば、とくに田舎に住んでいるというハンディはなくなるはずである。