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第43回士別市読書感想文コンクール
 高校生・最優秀賞

流動の中を『生きる』ために
士別高校1年 井手志穂

 『砂の女』は、教師である男が、現実のわずらわしさからほんのいっとき逃れようと、昆虫採集のためにやって来た砂丘で、部落の人々の罠により、砂穴の底に埋もれていく一軒家に閉じ込められ、その家に住む女と、部落のために砂掻きすることを強いられる。という話だ。
 男がなぜ昆虫採集をしているのかというと、新種の発見のためである。発見ができれば、自分の名前が長いラテン語の学名と一緒に昆虫大図鑑にかきとめられ、半永久的に保存される。男はおそらく、自分の存在理由を探してそんなことをしていたのだろう。人間というのは、自分の存在理由を探し求める。誰もが、「自分は何のために生まれてきたのだろう」と考えたことがあるに違いない。何かを生み出すこと、また、それを後生に残すことによって、自分という存在に意味があることを感じられるのだ。
 また人は、定着することに固執して生きている。同じことの繰り返しである毎日に縛られ、しかしそこから動くことはしない。形あるものにしがみついていないと不安を覚える。男は、そんな、定着ばかりを強要する現実をうっとうしく思い、絶えず流動している。何にも縛られることの無い<CODE NUM=3F41>砂<CODE NUM=3F42>に、強く魅せられたのだ。私も、毎日の生活がつまらなく感じて、抜け出したいと思うことが幾度と無くある。抜け出して、定着をやめて、何の制約もない所で、砂のように、ただ流動に身をまかせていられたら、どんなに自由だろうと思っていた。しかし自由というのは、この定着に固執した現実から見るから憧れるだけかもしれない。ただ流れに身をまかせているだけでは何も生まれないし、生み出せないではないか。それでは、そこから自分の存在理由を見つけることもできない。ということは、人々が自分の存在理由を求め続ける限り、定着に固執して生きていかざるを得ないというわけだ。
 男がこう言っている。「定着が、生存にとって、絶対不可欠なものかどうか」。男の考える通り、「生存」ということだけを考えるなら、なにも定着に固執する事はない。自由の中で流れに身をまかせていればいい。しかし、「生存」するのと「生きる」というのでは同じようで違うと私は思う。「生きる」は、ただ命を繋げるということだけでなく、人間らしく、様々な思考や感情を抱えながら生きる、という意味ではないだろうか。そして誰もが、「生きる」ために生まれてきたのではないだろうか。だとすれば、少しの間羽を休めるため、一時的に流動に身をまかせる事は可能でも、やはりいずれは定着に固執する現実に戻らなければならないということになる。「生きる」ためには定着が必要だから。ただ流動しているだけでは、感じたり考えたりする事はできないのだから。
 砂穴から脱出しようと、あらゆる、読んでいて感心してしまうような方法で部落の人々に抵抗していた男は、最後には穴を抜け出すチャンスを目前にしながらも、「あわてて逃げだしたりする必要はないのだ」という結論に達する。しかしそれは、決して逃げることをあきらめたのではなく、とどまることを選んだということを意味すると思う。男は穴の中で、偶然にも、溜水装置を作り出した。それに気づいてからの彼は、砂掻きの合間をぬってその研究に没頭した。つまり、自分の生きがいを見つけた彼にとっては、あんなに嫌がっていた穴の中での生活も苦にならないのだ。だからこそ、とどまることを選んだ。このことは、私にとても大切なことを気づかせてくれた。
 それは、本当に大切で必要なのは、「自分の置かれた状況の中で、いかにして楽しみを見出すことができるか」なのだということだ。「生きる」ためには定着が必要だが、ただ定着しているだけで、その中で楽しみを見出せなければ、存在理由を探すどころか、今までの私と同じく、毎日の生活が退屈だと決めつけ、そこから逃げ出したいとばかり考えてしまう。ちょうど男が、溜水装置を見つける前、砂穴から逃げ出そうとしていたように。しかし、男がそうだったように、私も日常生活の中でなにか楽しみを、それも「生きがい」と呼べるようなものを見つけることができれば、現実から逃げ出したいなどと思わず、むしろそこにとどまりたいと思えるようになるのではないか。
 「世界は砂みたいなもの」だと男が言った。もしそうだとすれば、私たちはその強大な流れの中で、何かにしがみつこうと必死にもがいているのだろう。私は、そんな不安定で不確かな世界で、奇跡にも近い確率で存在している『今』を、大切にしていきたい。今ここにあるものを大切だと思える自分になりたい。この本を読んで、そう考えるようになった。