本屋でだまされた        エッセイ―09


 あの頃、私は20歳。夕方になれば吉祥寺の高架線下にある小さな本屋にアルバイトに出かけ、夜の10時までレジに向かっていました。
 7時なると30分の休みがあり、近くの定食屋でまずい飯を食いに行き、店があけるとときおり吉祥寺駅そばのジャズ喫茶に立ち寄る程度の単調な毎日でした。ほんと、刺激のない繰り返しでした。
 ですから、血迷ったのです。
 ある日、とってもめんこい女性(本当にかわいかったですよ)がお店にやってきました。私と目があうと、彼女は目礼をした(……とこちらは思っていただけかもしれませんが)ので、私も目礼をお返ししました。
 それから彼女は毎日、私の目の届く範囲で立ち読みをしています。ミニコミ誌のコーナーでした。ちらちらと私の方に目配せなんかして、気のあるような雰囲気。
 そうです。この本屋にはいろいろなミニコミ誌の持ち込みがあるのです。
 彼女はミニコミに興味があるのかな、なんて思っていたのですが、実は違いました。
 アイコンタクトも回を重ねるうちに、私の方から「いらっしゃい」と声をかけ、彼女も「こんにちは」  通い始めて1週間、彼女はいきなりけっこう高価な専門誌を差し出して、かわいいニコニコ顔で「これください。まけていただけますか」
 「えっ、まける?」
 「ええ」
 それはちょっと、とお思いのあなた。それは違う。実はこの本屋、アルバイトにもレジを任せてしまうという、これが実におうようなお店です。しかも店には1人しかいない。
 まけようと思えば、いくらだってできる。でも、でも、これをやってはいけません。歯止めがなくなるから。もちろん、これまでだってまけたことはありません。
 でもねえ、この時はねえ、このお客、初めてのお買い物とはいえ常連のお客だし、なんたってめんこいもなあ。  しばし、私は葛藤しましたが、彼女のその意味ありげなかわいい瞳に説得されて、な、なんと定価の8割で売ってしまったのです。
 彼女「ありがとう」と本当にうれしそうでした。  私は言葉には出さずとも、こう言っていました。
 「いいんですよ、明日もあさっても来てください。そのうちご一緒に映画でも見に行きましょう」
 なんて、そんな下心、通用するわきゃない!
 彼女は次の日からぱたっと来なくなった。待てど暮らせど、知らんぷり。
 そうだよなあ。お客さんにすりゃ、所期の目的を果たしたんだもなあ。もはや関わりたくはないべさ。
 大都会の片隅で暮らす北のさいはての地方から出てきた、もてない、さえない青年が見事にだまされたという、とってもわびしくて情けない話のひとつでした。