復刻版・道北日報掲載日
  昭和33年1月26日


・01 青森・岩手―1
・02 青森・岩手―2

・03 宮城県―1

・04 宮城県―2

・05 山形県―1
 
・06 山形県―2

・07 福島県―1
・08 福島県―2

・09 新潟県―1
・10 新潟県―2
・11 新潟県―3

・12 富山県―1
・13 富山県―2

・14 福井県

・15 石川県―1
・16 石川県―2

・17 山梨県―1
・18 山梨県―2

・19 滋賀県―1
・20 滋賀県―2

・21 愛知県

・22 徳島県―1
・23 徳島県―2
・24 徳島県―3

・25 岐阜県

・26 中国地方―1
・27 中国地方―2

・28 秋田・岩手県

・29 香川県―1
・30 香川県―2

・31 愛媛県―1
・32 愛媛県―2

・33 医療人
・34 木材人
・35 多寄人


【多寄人の巻】       道北日報ヘッドライン 

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 県人会ーこれはかつて開拓に鍬を振つた古老や雄図も出し難く、勇躍して津軽の海を渡つたひとびとにとつて望郷と故郷の香を満喫させてくれる夢と糧の楽しい集いであつた。しかしその憧れを抱いたわれわれの先駆者もいまでは多く冥府に名を列ね、時の移り変りと言いながらわずかに名を止めているにすぎない。
 本紙では市の開基60周記念を迎えるに当たつてこれら開拓に辛酸を尽くした内地府県人の紹介と風土人物評をこころみることにとした

 多寄市街で相対して店舗を張っている後藤呉服店と松本商店の先代はいずれも開村以来の逸物であった。

 後藤良作は岐阜県羽島郡田代村の生まれ。父に連れられて明治32年栗沢町に移った。同37年多寄に来たが、彼は家業の反物を妻とともに商いながら、土地改良区の発起人をはじめ、30歳から55歳まで村議を務め風連村長も歴任、一生を公のために捧げた。昭和24年に74歳で有為の生涯を閉じたが、現在の古老たちにも彼の遺徳をしのぶものが多い。子が無かったため長姉の子どもを後継に迎えたが、文雄は小樽商業を卒業、役場入りしたのが機になって合併前まで収入役を2期務めた。本人はアマチュア写真でもやりたかったのか、一時東京の写真学校にいたこともある。従って趣味も音楽、カメラ、映画とセンスも豊かで人格円満なことで町内の定評がある。

  これに対する松本米吉は長州藩の血筋を引く山口県岩国市の産。明治38年、彼が16歳の時、軽川に移り住んだ。家柄は代々に庄家とかで郷里から軽川まで新天地を求めて海路船で渡って来たというからかなり金を持って来道したものと見える。24歳で恰好な場所がないものかと多寄に降りて結局雑穀、雑貨店を始めることになった。村議2期を務め、初代公選村長にも就任したが、現天塩川土地改良区理事長の古市新太郎とは互にしのぎを削ったものだ。伜の忠雄は名寄中学を卒業。親父の商売を受け継いだがPTA役員、消防後援会など煩雑な仕事を引受け、また教育委員、士別商工会議所役員として町内A級の名士である。正義漢で知識人にもなかなか人気がある。

 沢野正太郎は多寄は言うに及ばず、士別ブロックでも有数の事業家に例えられようだが、ここ数年体が不自由なのが惜しい。彼は明治36年歌志内の生まれ。父正吉が49年前多寄に移り農業を営んだが、25歳の時、裸一貫で家を飛出て市街で魚屋を始めた。他人のする仕事を俺が出来ないはずはないと不撓不屈、さらに雑穀界に手をのばしその後石炭業、マル通買収とあらゆる方面に彼の才腕を発揮した。昭和16年には劇場を創設。だが沢野は仕事の虫だけではない。村議一期をつとめ、消防に12年間、教育委員、PTA会長の公職にも就いたこともある。また彼は子どもの教育にはおのれの財産を注ぎこんでも果たすという信念で、すでに長男は米沢高等工業を卒業。現在富士電機に勤務。次男は東京医大を終えて研究生、3男は早稲田在学中というふうに全身全霊を打ち込んでいる。末弟2人は士高にいる。

 市議の溝田卯一は九州福岡の出身。幼時親に死に別れ苦労したが夜間の旭川中学を出て、士別で松崎商店に店員として働き昭和3年多寄で独立した。終戦後村議3期を経て議長になった。消防には入村と同時に入り消防団長という最高栄誉についている。54歳の若さはこれからが大いに活躍を期待するところだろう。 (敬称略)


 この連載は昭和33年に道北日報に連載したものを再掲するものです。今では本土(本州、四国、九州、沖縄)を意識することはありませんが、当時は望郷への思いをひとつにまとめた同郷の徒が集まる県人会組織が根強く存在していました。そんな彼らの活躍を追った連載を復刻掲載し、士別発展の基礎を築いた人々に光をあててみたいと思います。なお文章については今日の状況に合うように平易に改めている部分もありますので、ご了承ください。(敬称は省略)